木滑のおはなし
木滑辞典
木滑辞典
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あ行 | |
麻 | 昔は麻畑が広がり、麻の釜がありました。麻は小松から買いにくる人がいました。 小学校から、麻づくりなどの仕事をしていました。 |
あさんがえし | 昭和63年に村指定民俗文化財になりました。 お盆と、秋祭りに踊られる伝統的な踊りで、唄は鈴木主水(すずき もんど)。木滑では、85歳の丹保秀一さんと、野川義晴さんが音頭を取り、奥村光さんが太鼓を叩きます。何十年も途絶えてしまっていたが、2010年木滑史上初、木滑地区の3集落が合同であさんがえしのお祭りを行いました。 |
あしなか | わらじの、小さいもので、足の裏の真ん中あたりまでしかないもの。 昔はみんなこれを履いていました。子供は学校から帰ると、家の手伝いとしてあしなかを編み、ある程度編めると遊びに行くことができました。 |
安産石 | 平清盛の寵愛を受けた仏御前(『平家物語』に出てくる白拍子)が清盛の子を宿し、京都から実家のある小松市原町に帰る途中、木滑の地で急に産気づき寄りかかって出産したといわれる石です。 地元の人たちのおかげで安産であったことから、それ以来この石をなでると安産になると伝えられています。仏御前が原町でなくなった、毎年9月18日には旗を立ててお祭りをしました。 |
一向一揆 | 加賀の一向一揆は全国的にも有名で、「百姓のもちたる国」とされ、民衆が力をもった社会を100年に渡って築きました。 しかし、天正10年(1582)には、織田信長に一向一揆全滅作戦を命じられた柴田勝家の勢力により、木滑の人々300人余りが捕らえられ、はりつけにされました。これによって、以後3年間、集落は無人と化しました。 なんとか逃げ延びた木滑の人々は、富山の五箇山や、岐阜の白川郷で、身を隠していたのではないか、といわれています。前田利家の領分となった以降に、徐々に村人は木滑に戻り、村を再建していったという歴史が、木滑にはあります。 |
姥ヶ滝 (うばがたき) |
石川県と岐阜県にまたがる白山スーパー林道沿いにある滝。 76mの落差を緩やかに流れる滝で、白い水の流れが老婆の白い髪のように見える事から、その名がついたと言われます。 日本の滝百選に選ばれています。 |
絵馬 | 木滑神社に奉納されている絵馬では、屋島合戦の12場面が紹介されています。 仮名手本忠臣蔵図を題材に描かれた、源平合戦の合戦の名場面です。明治時代以降に、これは奉納されました。 |
オショゴジ | 上木滑の高倉山のすその大地のこと。 昔は聖護寺というお寺があったといいます。その隣に北シゴジと、カネドウという地名の台地もあります。その間には、テラン谷があります。 |
尾添川 (おぞがわ) |
手取川の支流。 岩底谷川との合流地点から手取川合流地点まで 一級河川の指定区間となっています。木滑新と瀬戸のあいだを流れた後、手取川に合流します。 |
か行 | |
蚕 | 昔は釜の上に桑畑が広がり、家では蚕が飼われていました。蚕を育てる木の棚が、どの家にもあったといいます。 |
木滑神社 | 大正8年(1919)、上木滑の貴船神社(少彦名命)と下木滑の八幡神社(応神天皇)が合祀されました。昭和63年、村指定有形文化財となった南北朝時代の木造「僧形坐像」があります。「 仮名手本忠臣蔵」題材とした12場面の芝居絵馬が飾られています。 |
木滑という地名 | 木滑は、吉野谷でも南部に位置しています。 「きなべり」とも呼ばれており、昔は木で鍋を作ったことから、「きなめり」になったという説があります。 |
下水道 | 下水道は、全国でも4番目に整備! 昭和60年から下水道整備事業に着手し、平成2年には、100%整備が達成しました。 |
コモロの滝 | 上木滑の南にあるムナン谷と手取川との合流地点にある滝。 昔、水子を流したと言われ、工事をした際には祟りがあったといい、現在お地蔵様が祀られています。 |
さ行 | |
酒 | 昔からお酒好きが多く、お客さんにはお茶の代わりにお酒を出していたらしいです。 |
城下平 | じょかべ。あさんがえしと並んで、盆踊りや秋祭りで踊られた踊り。 でも、現在はあさんがえしが中心に踊られていて、じょかべはあまり踊られていません。 |
鈴木主水 | 木滑の盆踊り「あさんがえし」で歌われる唄。 ~花のお江戸のその側はらに、さても珍し死情ばなし~ で始まるこの歌では、四谷新宿の女郎との情話がうたわれています。 |
炭焼き | 昔はたくさんの人が山に炭焼きをしに入っていました。 冬の山で木を集め、土をかぶせて炭窯を作り、子供達も炭を担いで村まで運びました。現在では、炭焼きをする人もいなくなり、山へ入ることもなくなったため、動物との緩衝地帯が形成できずに、鳥獣被害が拡大しています。 |
石灰 | 木滑新集会場の近くに石灰を採った跡があります。 石灰釜もあり、50年ほど昔には石灰の採取もしていました。 生活は、石灰採取、釜焼き、炭焼きが中心でした。 |
ぜんまい雪崩 | 下木滑に竹やぶがあり、雪崩がこの竹やぶにより止まります。それをぜんまい雪崩と言います。 昔は、山のふもとの家まで流れてきたといい、今は、雪崩を止める石積みがあります。 |
た行 | |
高倉山 | 手取川と尾添川の合流点の右側に位置する、標高922mの山です。 |
頼母子 | たのもし。講の一種。大火事があった後の昭和27年、茅葺き屋根を葺き替えるために設立しました。 住民がお金を出し合い、一軒ずつ家を立て替えたり、屋根を葺き替えたりしました。木は、山から伐りだして使用しました。 |
タバコ | 木滑では昔、葉タバコの栽培もされていました。運ぶために、鶴来まで歩くこともあったといいます。 |
出作り | 白山ろくは山に囲まれていて、平地が少ないため、傾斜面に農地を作らなければいけません。その側に小屋を作り生活し、木滑新では、焼畑が盛んに行われていました。 |
手取川 | 石川県の主に白山市を流れ日本海に注ぐ一級河川です。 |
手取峡谷 | 木滑の対山橋から下吉野までの約8km、高さ20~30mの絶壁の峡谷です。 |
天狗壁 | 高倉山の頂上付近にあり、昔修験者が訓練した場所。 この壁に登ると大雨になるといいます。 |
道場 | 江戸時代には、寺社奉行の支配下に無い宗教施設を道場と呼び、村人たちの日常的な宗教活動に使われていました。 明治には道場という呼称は禁止となり、説教所となりました。 戦後は、説教所の名称も廃止、旧名称の道場と呼ばれるようになりました。 |
土蔵の「水」 | 木滑の土蔵の壁には、「水」と書かれたものがあります。 火事を見てはいけない、という言い伝えがあり、妊婦が火事を見ておなかを触るとその部分がアザになるとも言われていました。龍が火事のときに水を出すといい、土蔵には龍の彫刻や「水」という文字があります。 |
な行 | |
濁澄橋 (にごりずみばし) |
木滑新にある、手取川と尾添川の合流点付近に架かる橋。 「雨風の時に尾添川の水が濁り、なかなか澄まない」という由来らしいです。濁ったり、澄んだりするという意味ではありません。 |
ニホンカモシカ | 1955年に特別天然記念物に指定されています。低山地から亜高山帯にかけてのブナ、ミズナラなどからなる落葉広葉樹林や混交林などに生息します。 |
は行 | |
白山 | 富士山、立山と共に日本三名山(日本三霊山)のひとつである、標高2,702mの山です。国立公園であり、林野庁の森林生態系保護地域、国設鳥獣保護区、カモシカ保護地域でもあります。 また、ユネスコの生物圏保護区に認定されています。 |
白山カモシカ 保護地域 |
ニホンカモシカ保護のために1982年に設定されました。石川県、富山県、福井県、岐阜県の4県にまたがっています。 |
白山国立公園 | 石川県、富山県、福井県、岐阜県の4県にまたがる白山を中心とした国立公園です。1962年に指定されました 。白山スーパー林道が通過する蛇谷峡谷は新緑や紅葉が美しいです。姥ヶ滝など8つの滝が見られます。 |
白山鳥獣保護区 | 1969年に指定された鳥獣保護区。 石川県、富山県、福井県、岐阜県の4県にまたがります。ブナ、ミズナラなどの広葉樹の天然林がみられる山岳地域であり、森林性の鳥獣の良好な生息地となっています。 |
白山スーパー 林道 |
石川県白山市(旧尾口村)と岐阜県大野郡白川村を結ぶ標高600m~1450m、全長33.3kmの有料道路です。 |
八幡神社 | 寛文の時代、口留番所が木滑新に移されました。関の神社と称され、番所を通過する人々を見続けていた社です。 |
福沢桃介 | 白山水力株式会社の前身である手取水電株式会社を創業した人物。 福沢諭吉の娘婿で、昔は水力発電の神様と言われました。銅像が建てられています。 |
蛇流し川 | 下木滑にある川。蛇流し谷という谷があり、昔は出てきた蛇を流したから、 こういう名前がついたのでは、と言われています。 |
保育園 | 石川県で初めての保育園は、木滑にありました。 金沢の聖霊病院のシスターが疎開してきて、そのお礼に子供の面倒を見ます、ということで始まりました。最初に作られた保育園は、現在道場になっています。昭和27年に村立の双葉保育所が作られ、そちらは現在、木滑公民館として使用されています。昭和63年には吉野保育所に統合されました。 |
北陸鉄道金名線 | 木滑のお向かいの鳥越村河原山には、北陸鉄道金名線の白山下駅跡があります。1926年(大正15年)白山下駅 と、加賀広瀬駅間を開業したのが最初で、加賀一
の宮駅と白山下駅 を結ぶ線でしたが、1987年(昭和62年)に全線廃止されました。 住民は「ポッポ汽車」と呼んでいました。路線の名前は、金沢と名古屋を結ぼうという構想からつけられたそうです。 現在は、綺麗な建物に改装され、サイクリングロードが通っています。 |
ほんこ | 報恩講のことであり、「ほんこさま」とも言います。 報恩講とは浄土真宗の開祖、親鸞の命日(11月28日)の前後に親鸞の威徳をしのび行われる法要のことです。報恩講の時の昼食(精進料理)を報恩講料理と言い、「お斎(とき)」とも呼ばれます。 料理としては、ごんご(むかご、ぬかご)の胡麻あえ、なます、など様々な種類があります。 |
ま行 | |
まがっとの ケヤキ |
下木滑の国道157号線沿いにある2本のケヤキ。 白山市指定の天然記念物です。かつてはここは『まがっと』と呼ばれて、道が狭かったそうです。昼間でも薄暗くて、サルが出ては人や馬を困らせたと伝えられています。 |
水 | 旧吉野谷村は、手取川の最上流部に位置して、手取川からの水を取っていませんので、山からの水や湧き水を、昔から飲み水、生活水として利用してきました。 昭和53年に、北陸電力の吉野谷発電所から水がくるようになりました。雪の多い地域には、融雪する際に使う水 への配慮がされています。集落から少し山にのぼった標高800mほどの地点に木滑の水源があります。 |
文字 | 昔は箱に入った灰の中に文字を書いて、何度も文字を練習したといいます。 |
や行 | |
吉野谷村 | 木滑は、2005年に‘白山市’(はくさんし)となりましたが、昔は吉野谷村(よしのだにむら)と呼ばれていました。江戸時代、吉野谷村には7つの村がありました。 ‘村’というものは、江戸時代には生活の場であり、また支配の単位として設定されたもので、 お米の生産高である「石高」(こくだか)で表されていました。 |
ら行 | |
ライチョウ | 1955年に特別天然記念物に指定されています。冬でも高山で暮らす日本で唯一の鳥です。2010年には白山で70年ぶりにライチョウが発見されました。 |
※白山麓の木滑、白山市木滑ということで、白山に関連した用語を一部使っています。 | |
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